あかまつ村



流れのままに


きっちゃん文集


「ちゃちゃたうん」

7月22日に ちゃちゃたうんにいくとおもったら
ぜんじつはきんちょうしてよくねむれませんでした。
ちゃちゃたうんはどこにあるかしりませんでした 。
だからどこにあるのかなとおもいました。

ついてからゆにくろにいってふくを2ちゃくかいました。
それからぴえとろでけーきをたべました。
おいしかったです。
らいとおんでおかあさんのおみやげをかいました
おひるごはんは、やきにくをたべました
とってもおいしかったです。
そのあととうめいのかんらんしゃにのりました。
ちょっとこわかったです。

          きつきかずみ




「めんかい」
わたしのははは、かくしゆうにちようびにめんかいにきます。
こくらみなみくのきのしたより、もじのおおつみまで
バスをのりつぎ2じかん30分ぐらいかけて
ぼくのいるちづるえんまできてくれます
ぼくはおかあさんがきてくれるととてもうれしいです




「ぼくのしんぱい」

ぼくのおかあさんが、もつととしをとってうごけなくなったら
ぼくはどうなるの
おぼんやおしょうがつはいえにかえれないの
ぼくはどうなるの

おかあさんはぼくがかえったら
いっしょうけんめいぼくをおふろにいれてくれる
ぼくはとってもおもたいのに

このごろぼくはしんぱいになる
おかあさんがいつまでもげんきで
いてくれますように
いつまでもかえれますように。




あれから、31年、

31年前、僕は故郷に帰ってきた
あの時どんな気持ちだったのだろうか

帰った故郷にはアスファルトの道路がなかった
変化のない僕の故郷
その故郷が有り難かった
この故郷で人に知られず、ただ、真実に生きて行きたい
そう思っていた
本を読み、真実に生きた先人の魂を感じ、それで嬉しかった
遠い山々を見ながら、人のなんたるかを思い
座禅のまねごとをして、祖国の道を思索し、
人が今を如何に生きるべきかについて考えた

朝起きることが楽しかった
いや、肉体的には苦しいのだ、朝の貧血はきつかった
しかし、本に向かい、先人から学ぶことが楽しく、
少しでも早く起きたかった。

学ぶのは誰のためにでもない、自分のためにであった

しかし、時は流れ
変化のない筈の故郷も形を変えていった
そして、私もとうとう故郷を離れる日が来た

私は施設に行かず、、福岡に転居した
先輩から、友人から、
馬場はじっくり考えてくれ
俺はそれを聞きながら生きていくと言われていた私が思索の日を失い
みんなと歩くようになった

これで良いのだろうか?
私の本来の道からはずれてはいないのか?
疑問はある


だが、施設に行く覚悟を決め、若い人を見た時
私は自分の間違いを感じた
若者たちには私が必要だと

あれは何だったのだろうか?
あの直感は誰が掲示したのだろうか
私は天命と思いそれに従った

あれから3年、
蓄えた体力はとっくに使い果たし、ヨタヨタと歩きながら、私は歩いている








頑張れ二月

去年の暮れ酷い下痢してからなんでか元気が出ん
寒さに負けて外にも出て行ききらん
バッテン、そげん出んわけにはいかん
頑張らんとない
いかん、いかん、こげなこと言いよったら、限りなく動けなくなる
さー、もう一月は終わった
頑張れ二月、ここが踏ん張りどころ
人と違う人生選ぶなら、歯を食いしばって、踏ん張らんかい!!




何でかね、何でこの世は生きるのが苦しいとかね

生きるって、どういうことやろ
何でこんなに悲しいと
何でこんなに苦しいと
ただ生きる、それだけのことなのに
悪いことしたわけじゃなか、人を苦しめた訳でもなか
それなのに、何で・・・

何でこの世に生まれたと

私なら分かる、
はんぶん、それでよかて思うとる
苦しい中から道を探す力があるもの
自分が父母にも姉妹にも十分苦痛を与えてきたことも知っとるとやけん
いやいや、以前だけじゃなか、
今も、色んな人にいっぱい迷惑かけて生きとる
かけねば生きられんこの身体ばどれだけ怨んだか
神様から預かったこの身体を怨んで・・、私は罰当たりタイ

バッテン、みんながそげんじゃなか
障害をもって生まれた赤ん坊もている
あどけなき時から障害者になった子もいる
一生懸命真面目に生きてて障害者になった者もいる

みんな一所懸命生きとる
それでよかじゃなかですか、それで十分じゃなかですか
それとに何でこんな試練ば与えると

神様、あいつが生きる希望ば失うじゃなかですか
少し、和らげて

この世にいったいどれほどの生命が存在するとやろ
みんなそうとやか
犬も猿も、鯖も鰯も、杉も桜も、ヨモギもハコベも
石も蹴飛ばしたら、「あっ、痛い、何すると!」て言うとるとやろか
そうやって、みんな生きとるとやか・・・・








障害者の社会参加に法の整備を求める

バリアフリーという言葉を聞くようになって何年になるやろか
その事について障害者の立場から一言発言させてもらいたい

ええ加減にせい!!
もう周知期間はとっくに過ぎたばい
なんかい!この無様さは!
もう、これ以上放置してはいかんよ
罰則と強制処置を伴うバリアフリー法を制定せにゃいかんやろ

俺が言うとは人権とか何とかじゃなか
人間として、これ以上の放置は、人間性の放棄に繋がるけん言うとたい
知らんならしょうがなか
バッテン見て見んふりは許しちゃいかん
それは人間性の放棄にほかならん

何で新築のビルに階段だけあってスロープがなかと
何で、道路工事の時に、段差ば解消せんと

「障害者の自立を進める」てそりゃ嘘やろ 
心にもなかことば言いなさんな
なん?
あるて言うね、そんなら、それば実行せんね
困っとったらしてやるて言うごたる大きな顔しなさんな
簡単なこつたい
罰則と改善命令の付いた法を整備して 行政指導すれば済む問題たい。
そりゃ難しいてね
なんば言いよるね
あんたたちにやる気のなかだけやろもん
そいけん、最初に「障害者の自立を進める」てそりゃ嘘たいて言うたと

北朝鮮の船ばとめれて国民が要求した時に、役人はなんて言うたね。
「外国籍の船の入港を止めることは誰にもでけん」て言うたろが
それがなんね、言うた口びるの渇きもとれん内に
国会で特定船舶の入港を止める法案の議決ばして阻止でけるようになったやないね

屁理屈はよか
せんね
でけるとやろが
そればせんとは、怠慢じゃすまんとよ、罪悪バイ
あんたたちが考えとるごて、法には触れんたい
法には触れんばってん、人間の良識にふれるやろが
それが人間としての一番の最悪やろもん 
人間の良識ば法律という形にせんない







酔っぱらい
最近飲む機会が多か 
以前は年に飲むのは夏のビールだけがほんどやった
それも年と共にあんまり飲まんごとなって
年に数回という状況やった
それが、最近は、多い週は3日も飲むこつがある。
普通の人ならどういうこともなかこの回数も僕には無理が来とる

kokoro:なんで、そげんしてまで飲むとね
tamon:そりゃ、酒が好きやけんさい
kokoro:なんでこげんきつかとかい
tamon:そりゃ、身体がいかんて言うとるとたい
kokoro:どげんするね
tamon:うーん、暫く様子ば見てみようて思うとる
kokoro:様子みるて、酒ばやめて、様子ばみるとかい
tamon:んにゃ、酒飲みながら様子ば見る








亡くなった友人からの手紙
前略 早いもので1月も今日で終わりです。
先日は私にまでおみやげを頂き有り難うございました。夜麻里ちゃんが
持って来てくれました。その時馬場さんの伝言も聞きました。
私も馬場さんにお会いしたら、色々お訊ねしたい事もあったのでとても残念です。
今度おみえになった時は絶対、話して下さいね。
 お正月は施設にショートステイに行ってるという事は麻里ちゃんから聞きました。
私も今年で施設で迎える正月は5回目になります。それ迄は毎年暮れから
4・5日間家に帰っていたのですが、母が段々弱り帰省できなくなりました。
家に帰るのはいいのですが、家から施設に帰る時がイヤですね。
家に居たい思いと私の帰る車を母が見送る姿がもの凄く淋しそうで、
“あー叉お母さんは一人ぽっちになるのか”と思うと思わず涙が出そうになるのを
必死でこらえて本当に辛かったです。
と云って一緒に居る時は優しい言葉をかける訳ではなく、むしろ文句を云う方が
多い位で、だから分かれる時は後悔の気持ちが一杯で余計辛いのかも知れません。
アラッ、話が脱線ししてしまいごめんなさい。

苑の元旦は朝食と昼食が一緒で11時過ぎ頃から始まります。
元旦の日は苑長に部長、指導員、事務員さんが出てきて新年の挨拶があり、
部長がおとそをついで廻ります。食事の後は私は毎年、「実業団駅伝」を観て、
年賀状を見て(年賀状は一番楽しみです)4時から夕食、毎年1日の夕食は鍋です。
食堂にガスコンロを持ってきてアツアツを頂きます。2日、3日の朝食は御飯では
なくてお雑煮とおせち。2日、3日は「箱根駅伝」を観るので、3日間は駅伝漬けです。
その間に姉や姪達、友達が来てくれお正月もあっという間に終ります。
年々帰省する利用者も減り、今年は30名以上の利用者が残ってました。
今年のお正月は筒井さんと原口さん休んでいたので職員の人数が少なく
出勤した職員は大変でした。毎日、毎日の寮母さんが少なくて、
「今日はたった5人」とか叫んでました。お正月の間は利用者が少ないから
まだいいのですが、お正月が終わっても、暫くそういう日が続いてました。
2人が現場復帰(字が違うみたい)した時は本当に嬉しかったです。
今日は寮母さん9人、介護士3人、実習生3人。何とかホッとしています。
昨日ベッドの入れ替えがありました。今回は24台です。
電動ベッドだったので驚きました。私はベッドが替わったのですが、
マットが堅くて堅くて、昨夜は余り眠れず・・・私には畳の上に
そのまま寝ている感じで辛かったです。今朝他の人に聞いてみると、
他の人はそんなでもない感じなんですよね。とにかくー今夜もあの畳の上(?)に
寝るかと思うと恐怖なので、奥田さんに話すと古いマットと替えてくれたので
一安心。今夜はよく眠れるでしょう。入浴の時間になりました。今日はこの辺で。
一人暮らし頑張ってエンジョイして下さい。
チョコレート好きなので嬉しかったです。
さようなら。
1/31        竹口
馬場さんへ

これは一年前に亡くなった竹口さんから戴いた手紙である。
一周忌に書いて供養の代わりにしたいと思っていたら、
いつの間にか。その日が過ぎてしまっていた。

竹口さんが、自分が生きていたことを覚えていておいて欲しいと
思っていたかどうかは分からない。
併し、今日こうやって読み返すと、竹口さんという人間が
この世に確かに生きていたことが実感として分かる。
竹口さんは利用者からも職員からも慕われ相談相手となる素晴らしい人だった。
色々なことを語り合ったけれども、真摯で奥行きのある方だった。
竹口さん安らかに眠って下さいね。
(竹口さんのことは「ある友人との別れ」 と題して 昨年書いています)

16.8.14




きっちゃんのノートから
11月23日 ふうせんバレー

おおいた たいかいに しゅっぱつする。 

まえのひから よくねむれず 

よなかじゅう ずっと きんちょうしていました。

あさ はやくて とても ねむかったよ。

くるまのなかでは きらきらひかる おひさまが とってもきれいで ずっとみていました。

しあいは ぜんぶまけて くやしかったけど 

ぼくは あいてチームの アタックを とったりして かつやくしました。

おひるごはんと よるごはんは レストランで みんなで たべました。

ひとりで たべるより みんなで たべるほうが おいしいです。

また らいねんも ふうせんバレーの れんしゅうを がんばって しあいに でたいです。





「ひな人形」

私は間違いなく男性です。
バッテン、ひな人形ば持っとります。

福岡に引っ越す時に家に置いたままにしてしもた。
八女にお雛さんを作る会社があるとタイ。
ここの亡くなったバーちゃんがくれらはったと。
母がお店ば訪ねた時に戴いて来たもんです。
母がもらったて言うけん、「そりゃなんかの間違いバイ」て言うたら、
「何回も確かめた」て。
それでも信じられんけん、私もおそるおそるあらためて電話したですバイ。
「わたしゃ男ですが、もろてよかとですか?」て。
そしたら、「はい分かっとります。どうぞもろうて下さい」いう返事。

このばあちゃんはとてもでけたお方ですけん、
私はそれで黙って有り難く戴きました。
そのばあちゃんはその後亡くなられたバッテン、
ひな祭りの節句になるとその雛人形ば出しておりました。

藤木のばぁちゃんは私の部屋に入ってこられると、
黙って私が毎日拝んでいた祖父母や師の遺影に手を合わされて、
神棚さんにも手ば合わされたもんやった。

あれば見て、「参った!」て思うた。
その心の深さや心くばりに降参したもんやった。
「人間ちゃ言葉じゃなか。一番大事なこつは生き方そのものタイ」と心打たれたもんやった。
懐かしかなー。
あの世ではまたゆっくり話させてもらおう。



よりちゃんの掲示版に書いた「あっ!ひな人形忘れた! 」を元に書き直したもの

 2004年03月11日 (木) 09時07分




「もうすぐ春ですね」
春が近づいて心浮き浮き。

後20日ですよ。

春のお彼岸になると必ず空気がパッて入れ変わるとです。

冬の空気から春の空気にね。

もう木や草の息吹が始まっとる。

外だけじゃなか、

木の芽の中でも、土の中でも春の息吹が始まっとる。

さー、外に出て春を感じよう。

長い冬もまもなく終わりだ。





自立・U
この前っさい自立て書いたやろ。
あん時に書いてて思うたとよ。
呼吸することが自立なんだって。
生きて生きて、生き抜いて、最後の最後に残ったもの。
その時には、ただ息をすること、それが自立なんだって

今の俺がそげなこつば言うたら罰当たりタイ。
思い上がりたい。
バッテン本当はそげんとよね。

16.1.11




「頑張れ!」
頑張ろうて人は励ましてくれるバッテン、
みんな、頑張ろうて言われても、もう頑張って来たとだよね
頑張って、頑張って、生きてきたとだよね。
知りもせんで簡単に頑張ろうて言わんでくれ、
と言いたい時もある。

ハイ、俺の心は時としてひねくれとりますと。
障害者になって、心のどこかで、
「あー、俺はどうせ障害者タイ」てひねくれていた。
でも、ひねくれた自分を私は許した。
直しなさいと言わんやった。
ひねくれた自分の心ば許した。
そればバネにして生きて行けて、自分に言い聞かせた。

心が癒えるまで10年以上かかったけれど、
癒えた時に、
やっぱりひねくれた心はいかん改めようと思うた。

バッテンひねくれた心は今もどこかに眠っとると。
時たま、思わず出るとタイ。

出たらごめんね。
感じさせたらごめんね。
でも、そげんせんと生きてこられんやった私たちの心ば悲しくも思うて。

可愛そうて思うてと言うとやなか。
本当の意味の同情心タイ。
同情心て人間にとって大事なもん。
人によっては、「俺と同じにならなきゃ俺の心が分かるか」とか、
「同情心なんかいらん!」て言う者も居るバッテン。
俺はそげなこつは思わん。

同情心て人間にしか持てない大切な気持ちなんだと思う。
一緒に泣いてり笑ったりして、心ば同じくするこつは誰にでもでけることじゃなか。
同情心て、要は人と人が一緒に歩こうとする心じゃなかろうか。

同情心て上から見下すこつやなかと。
同情心ば、「そげなもん世の中にはいらん」て言うほどひねくれちゃいかん。
と、思う。

みんな一緒に生きて行こう。
素直な心で一緒に生きて行くならそれでよかやんかい。
問題があったとしても素直な心ば持っていさえすれば必ず解決できると。

「がんばれ」て俺は言うよ。
頑張って、頑張ってきた君に俺は「頑張れ」て言うよ。
今頑張っている君に俺は「頑張れ!」て言うよ。

君も言えよ、「あいよ!あんたも頑張りなよ!」って。
そしたらっさい、俺も言うタイ、「有り難う!俺も頑張るよ」って。

15.1.11



「施設にて・自立」
施設に来るといつも、人間が生きるとすうことを考えてしまう。
ここでも自立について考えてしもた。
自立というとは一人暮らしだけに必要とじゃなかてね。

施設にいてもやっぱり自立の心は必要タイ。
施設に入ったら施設に全部任せてよかなんちゅうこつはなか。

この施設にはショートステイで来るようになって3年近くなる。
年に2回か3回しか来ないけれど、
施設に入って来た者が少しずつ自立していくのが見える。
閉ざした心を開いていのが見えることもある。
施設にいてもそこに自立ということを感じる。

でも、それを見ていて、
家庭の暖かさを思うと同時に、ぬるま湯であることも感じる。
施設に来て、
「障害者なんだから甘えさせてもいいじゃないか」というこれまでの僕の考えが、
間違いであることを知った。

健常者も障害者も関係ない!
していいことと、してはいけないことはきちんと、教えられなければ駄目!
そうじゃなければ自立できない。
自立の心を持たなければ、人として生きていけない。
そう思った。

親はいずれ弱ると。
病気になることもあると。
さして何よりむ確実なことは、死ぬということ。
そういうとき、
殆どの障害者は施設に入るしかなかと。

その時にきちんと人としての考えを躾されていないと、誰より本人が可愛そうだ。
彼らは突然大勢の中に入った時に直ぐに対応はできない。
もしかしたらずっと対応できないかもしれない。

寮母さんだって人間だ。
そこで暮らす利用者も人間だ。
一生懸命してあげたいけれど、仲良くしたいけれど、
自分にことしか知らず、人の中で生きて行く術を知らない人間を
笑顔で接することは出来ないよ。
いかなる人もみんな受け入れ接せにゃいかん寮母さんは大変だと、
外から来た僕は思う。

お父さん、お母さん
あんまし、私が私がて思わんで。
愛情はイッパイイッパイ持っていて欲しい、
でも、いつか自分の手元ば離れるていうこつば忘れんで。

お父さん、お母さん、
世の中には子供に無関心な人もおるけん、
ここに彼が生きていることを忘れてもろたら困るけど、
生きていけないけど、
あんまし彼ばっかしみらんで。あんましいい人になり過ぎんで。
立派すぎたら、子供はいる場所がない。
自分を表現する時がない。
自分で歩ける道がない。

だから、ちょっとだけ、離れてて、そして見守っていて、
助けがいらないんじゃないよ。
いるんだよ、いなきゃ生きていけないよ。
だから側にいてよ。
でも、ちょっとだけ距離ばおいて上げて。
彼もちゃんと一人で頑張るからさ。

16.1.6




お年玉=お歳霊
みんなお正月にお雑煮食べた?
餅何個食べたね?
ワシ昨日は4ん個も食べてしもた。
一個だけて言うてお代わりしたとに、2個も入っとった!
で、食べました。
ゆっくり時間ばかけて。
後で食わなきゃ良かったと思うやろなて思いながら食べました。
苦しかった。
餅は腹持ちが良いから、なかなかすっきりしてくれん。
「あー、子供の頃はこげん腹イッパイ食べよったタイ」て思い出しました。

お年玉て言うけど、本当はお年霊のことなんよ。
昔は人の魂は丸いと考えていて、それで鏡餅は丸いと言われます。
元日にお餅を戴くのはその年の霊を身につけることで、
それをお歳霊て言うたらしいと。
それがお年玉になったらしいよ。

考えてみれば、正月に子供にお金を渡すて何かおかしいよね。
多分昔は一家の長がみんなに真面目な顔してお餅を配ったとやろにゃ。

そうそう、支那の皇帝は年の初めに暦ば配ったて聞くよ。
今に生きる僕たちがそれだけ聞いたら何か笑ってしまうけど、
昔の人にとってその年に稲の植え付けや農作物の植え付けをどうするかは
とても真剣で大切なことだったと思う。
そう思うとその年の吉凶を占いその年の行事を定めた暦を作ることは
国と国民の生活のかかる大切で真剣そのの行事だったと思う。
知らないからて昔の人のことば笑うたら罰があたる。





お正月=クリスマス?
(世間話程度にきいといて)
昔は当然お正月は旧暦で行われていた訳です。
で、お正月は冬至の日に当たったと聞いたことがあると。
衰えた太陽が再生を始める日がお正月てなんかいいね。
そういう意味があったんだと納得。
でも、あれ?
正月と冬至が一緒なら冬至のカボチャはどうなると?
ユズ風呂は?
新嘗祭も冬至に行われていたんじゃなかった?
こりゃこの話しはなんかが抜けとるばい。

ついでに、うろ覚えの話しをすると、
クリスマスはもともとキリスト教が広まる前の西洋の冬至の日の祭りと
くっついたものだと何かの本に書いてあった記憶があるとタイ。
とすると、お正月とクリスマスはもともと意味も日にちも同じだったのかも?

うろ覚えの話しやけん、どこかで間違っとったり、
何かが抜けて話しが違とったりするけあんまし真剣に聞かんで。
バッテン、その元々ば訪ねてみると東西で妙に一致するものがある。
人の心や祈りはおんなじということやね。

冬を耐えて耐えて乗り越えなければいけない私には東北の人の春を待った心が分かる気がする。
暖冷房に慣れた今の人には分からないて思うバッテン、
3月の20日頃になると冬の空気がふっとぬるむとよ。
それが肌で分かると。
それだけで、僕はもーにこにこタイ。
自然と毎日にこにこなると。

冬至の日は太陽の復活する日。
洋の東西を問わず、昔の人にはそれが肌でわかったとやないやろか。
それをお祝いするなんて昔の人の心は嬉しいね。
慕わしいね。
僕らは余計なものば多く知りすぎているのかも知れない。
余計なものを持ちすぎているのかも知れない。
僕らは現代という社会の恩恵を受ける一方で、
悪くも染まってしまっているとやなー。





「茜雲」

古の人も 見たるか 茜雲 君は山に立ち われは里に立つ

山肌を かすかに染むる 茜雲 永遠の生命の ほのかに揺れて

霧島の 山肌染むる 茜色 永遠の生命は 今も流れて





「紅葉」

自然とは何と偉大なんだろう
あの紅葉の素晴らしさは誰にも描くことなんかできない
横山大観の「夜桜」を今年の春見た。
素晴らしかった。
今までに見たことのない素晴らしさだった。
感激した。
この絵が何億円とすると言われても驚かないと思った。
しかし、大濠公園の横を通った時、
堀の縁に並ぶ桜は、一本一本のどれもが「夜桜」よりも美しかった
一昨日見たハゼ紅葉の感動に較べたら「夜桜」の感動は消えて行く。

自然は偉大な哲学者、
人間が、「俺は真実を見た。真実の人間社会を作るんだ!」、
「俺は人間の真実を聞いた。これをみんなに広めるべきだ」と感激して叫ぶ
でも、所詮は、狭い世界の一部を見て、俺は分かったと言っているに過ぎない。
だが、自然は違う。
自然は真理の体現者である。真理そのものである。

あー、あのハゼ紅葉の素晴らしさ。
目を閉じれば、光に透き通った鮮やかな朱の色が目に浮かぶ。

なんで、俺はこんな町に居るのだろう。
なんで、俺はあの山に行って、木々と共に住まないのだろう。





「誕生日」

今日は私の誕生日やった。
この年齢になると目出度くも感じらん。
などと、昨日までは、それでよかて思いよりました。
バッテン、そげんじゃなか。
どれほど多くの方が僕を支えてくれとりますか。
去年までの私は、昨日までの私はそれに気がつかん大馬鹿者やった。
誕生日は自分が祝ってもらうものなんて、考えとった。
まー、思い上がりもよかとこ。
誕生日は僕が有り難うと言う日、感謝する日やったとタイ。
僕が周りの人たちに感謝しなければいけない日でありました。
今頃気が付いた。

母さん、姉ちゃん、陽子、亡くなった父ちゃん、みんな有り難う。
そして、先生、先輩たち、仲間達、有り難うございました。
今は辞めた人たちも含め、ヘルパーの皆さん、寮母さん看護婦さん、
今までお世話になったお医者さんたち・・・、みなさん有り難う。

書いても書いても数え切れない。
でも、書いていなくても当然、僕の中にいて僕を支えてくれている人たちが沢山居る。
祖母ちゃんも祖父ちゃんも忘れていいるわけがない。
小中高大の友人達、
隣近所のあの懐かしい婆ちゃんたちを始め、
亡くなったり、住所も知らないで、今は会いもできない、
名前も忘れた人たちも含めて、みんな、みんな、みんな有り難う。
みんなのお陰で54才の今日という日を迎えられたバイ。
有り難う、感謝致します。
これからもイッパイ迷惑かけながら生きて行くけど、宜敷くお願いしますね。





「自立?」

福岡に転居してから自分のこつば言う時、
暫らくは「自立」しとりますち言いよった。
なんかちょっと誇らしげな気持ちやった。

バッテン今は「自立」ち言うことに、なんか違和感のある。
だけん今は「一人で暮らしとります」て言う。
それでも、人はエッていう顔ばせらっしゃる人が多か。

障害者のこつば知っとらす人は、「頑張っとるやんね」ていう意味で、
知らっしゃれん人は、「その体でどげんやって一人で暮らしとらっしゃると?」という意味で。

八女に居る時は自立生活なんて思いもせんやった。
自立て?俺がどげんして一人で生きていけると?て思とった。
でも、自立て言う意味が違とった。
俺たちの自立は普通の人の言う自立じゃなか。
本当に多くの人に助けられての自立。
こっで自立とか自立生活て言うてよかとやろか?
ヘルパーさん達にあまりに申し訳のなか。
未だに疑問のある。

「一人で暮らして不安じゃなかね?」
「寂しくなかね?」
て人は心配してくれらす。
そん通りバイ。
不安タイ。
寂しかタイ。
バッテンそれば乗り越えきりきらんなら一人じゃ生活でケン。
たくましくなきゃ、タフでなきゃ、生きていけん。

施設におったら不安は少しは和らぐやろ。
一人の生活より、少しは安心タイ。
バッテン同じこつじゃ。
施設におれば行ける病院も限られる。
よか病院ばかり探すていうわけにゃいかん。
いつも「あの病院に行って」という訳にゃいかん。
買い物もデパートに行けるとは一年に数回バイ
不満や不安はどこにおってん生きとる限りあると。
そこに楽しみば見つけきりきらん限り
どこでもおんなじ。
人生不消化じゃ。

人は誰も一人じゃ生きられん。
それとに、どこにもおっても孤独感ていう寂しさがいつもある。
その寂しさが耐え難かと。
家族と暮らしとっても、「家族に負担ばかけとる」ていう意識は抜けん。
自分は家族にいつも背負われとる。
「なんで!?」
「なんで、家族に負担ばかけにゃ生きて行けんと!!」
有り難かタイ、心から有り難かタイ。
バッテン、それが辛かと、それが悲しかと。

そりゃ障害者にも生きる権利はあるくさい。
バッテン、やっぱ障害者にはなるもんじゃなか。
障害に縛られとる苦しさはなんとも言い表せん。
もうよか、この苦しみはこの世だけでよか。
俺だけでよか。

それでん俺はよか方と。
電動車イスば使えるとやもん。
天神にも一人で行けるタイ。
手も少し力の残ったけん、毎日自力で散歩でける。
そげんとやもん、
文句ば言うたら、罰当たりタイ。

施設に居たら、気の合う仲間もでける。
優しい寮母さんもイッパイ居って。
楽しかこつもいっぱい在る。
バッテン、それでも、
飯なんかよか!、
構わんでくれ!、
一人にしといてくれ!
という時がある。

そこにもやっぱ孤独感は襲い来る。
障害者に生まれた辛さも、悲しみも、いっぱい感じてしまう。

障害者は悲しい。
心の全部は誰にも言えん。
家族にも言えん。
いや大事な家族やケン、言えんと。

俺が生きて行けば、多くの人の助けが必用になる。
その人達にイツパイ迷惑かけてしまう。
だけん、言えんこつのある。

「なんでも言うて」て言われても
ヘルパーさんに、自分の心にゃどこかにいつも「死にたい」て思う心のあるとて本音ば話す訳にゃいかん。
やっぱ、笑って、お早う今日も頑張ろうね、って言うとると。
寮母さんに、「私ばもっとちゃんと見て、もっと沢山助けて」ちゃ言えん。
これ以上、自分のためだけに何かばしてほしかちゃ、
人間として言えんくさい。

嬉しか時は嬉しかて言える。
楽しか時は楽しかて言える。
バッテン、苦しか時に苦しかて言えん。
悲しか時に、悲しかて言えん。
涙は布団の中、歯を食いしばるとも布団の中。

一緒に歩いて、誰か俺と一緒に歩いて。
一日の内の何時間かんかでよかと、俺と一緒に歩いて。

バッテン、苦しかて言えんでよかじゃなかね。
悲しいて言えんでよかじゃなかね。
言葉にしたら、苦しさば背負わしてしまう。
悲ししかて言うたら、泣かせてしまう。
言えんでよかたい・・・、ね。

人間が生きるにゃ強さがいる。
タフでなきゃ生きていけん。
障害者ならなおさらタイ。
行こうぜ! 行こうぜ!
生きて行こうぜ!

自立もくそもなか。
一人じゃろが、施設におろうが関係なか。
家庭におっても関係なか。
強い心ば持とう。
強い心で生きて行こう!
苦しい人生の分、人の苦しみが分かる。
だから、人に優しくでける。
優しは強さタイ。
笑顔は強さタイ。
心は強く広く、顔は笑顔で。
生きて行こうよ!
笑って生きて行こうよ!!

笑えんごとなったら、
優しくでけんごとなったら、
そん時は力ば借りよう。
力ば貸して、って言おう。

あなた、力ば貸してくれますか・・・
(15.11.18書き直し)





「ヘルパーさん・寮母さん 愛してるよ!」

今までヘルパーさんや施設の寮母さんから、
「私が利用者さんにとって本当に必用なのかわからない」とか、
「自分がこの施設で必用とされているかどうか自信がない」といった話しを何度か聞いたことがある。

自分がいなくなっても、この施設は何も変わらず動いていくよ、
私がいなくなっても利用者さんはちゃんと生きていけるもの、
私でなくてはならない必用はどこにもない。

障害者の介護に携わる多くの人たちがそんな気持ちを経験しているようだ。

でも、僕は「そんなことはないよ!」と断言する。
それは僕が介護される側だからはっきりと分かるんだ。
ヘルパーさん看護婦さん、僕の生活は多くの人が支えている。
でも、一人一人はその大勢の中の一人なんかじゃない。
だから、誰かがやめると何かが変わる。
まして、施設で一割とかそれを超えた移動があった後で施設に行くと、
その施設の印象は以前のものと全く違うものとなっている。

それだけ、一人一人の存在が、影響を与えているんだよ。
君の存在はそんなちっぽけなものじゃない。
人はそれぞれ違う。
それぞれ性格があり、持ち味がある。
それらの生きた人たちが絡み合って総合的に施設の生活があり、私の生活がある。

だからヘルパーさんの誰かが一人辞めると僕の生活は変わる。
確かに辞めても私は今までのように生活している。
一見そのように見える。
だが、違うんだ。
今までと同じではないんだよ。
それまでの生活とは違うんだ。

同じように見えるのは、表面上のこと。
それまで一生懸命支えていてくれた人が、突然辞めたら、本当に暫く立ち直れない。
手のうちようがない。
人間は一人一人違う。
代わりは居ない。

ヘルパーさん、寮母さん、みんなもっと自分に自信をもって!!
胸を張って生きて!!

僕たち障害者はみんなと一緒に生きているんだ。
みんなが居るからこの生活ができるんだ。
君は間違いなく僕を支えてくれている。
もし、辞めたとしても、僕の人生を支えてくれたことは消え去りはしない。
そのことは誰も消し去ることはできない。

君が頑張っているから僕は生き生きと生きているんだ。
君が明るいから、その明るさに染まって、僕も明るく生きていける。
君が居るから、今の僕がいる。
僕の生活がある。
ありがとう。
愛してるよ。

〔15.11.03〕




「生きて行こうよ」

まーまー ヨッちゃんそげん怒ってどげんするとね?
て言う声が突然聞こえた
あれ?なんか懐かしか人の声やったバイ
末広のバーちゃんね
んにゃ 大好きだった我がバーちゃんの声やったかもしれん

馬場さんあんまり頑張っちゃ駄目よ!
あれ?そげな声まで聞こえたバイ
これは違う人の声やな 
でもなんかえらい懐かしか人の声じゃ

頑張るともよかバッテン
もっと明るく笑って生きて行こう
笑った顔ば忘れちゃ駄目バイ!
みんなそげん言いよらす

あー そげんじゃった
わしゃ近頃笑いながら生きとらんやった
文句ばっかし言うとっちゃいかん
怒ってばっかしじゃいかん
そんなちんけな根性でどげんするかい

みんなで笑うて生きて行かにゃ
肩の力ば抜いて ゆ〜くりした気持ちで生きて行かにゃ

心は広く毅くバイ




「人はどこに行くと?」

老人は昔が善かったという
でも 若者は今の科学に裏打ちされた社会で中でしか生きられない
自然がよいという若い人も 
自然の現実の一部を見せてやると 途端に元気がなくなる
テレビのない 灯りのない自然に触れると 
お手上げ 降参

人はどこに行くと?
医学の遅れた昔の日本なら 
多くの障害者だけじゃなく
健常者の者も 実に多くの者が生きることが出来ない

でも、自然を受け入れることのできない社会は
いずれ自然の反撃にあって 自ら崩壊するしかない
人はどこへ行くと?
どこへ行ったらいいと?

自然を受け入れる 死を受け入れるということは
あれはいや、これはいや 
ではなくて あらゆる一切を受け入れるということ
その強さは人間には求めるべくもない
動物や植物は凄いよね
一切が自然の中で生きているとだもの

でも それは 人間社会じゃなか
文明は存在しない
人間の真実の文明とはどこにあると?
人はどこに行けばよかと?





「生きるということ」

そこに山が見えている
行っても行っても そこにあるのは同じ景色
小さい頃のおぼろげな記憶

生きて行くことは一見簡単に思える
自分のことなんか分かりすぎるほどに分かっていると思う
なのにいざ生きて行こうとすると
いざ見ようとすると
なにも見えていない
だから
あっちに行ってゴツン! こっちに行ってゴツン!
いつも暗闇の中 

俺ってなに者? 俺は何処へ行こうとしとると? 俺はなんの為に生まれたと?
そもそも人間ってなに?
なにも分かっちゃおらん

流されて生きて行くしかない人生に
なんとか自分という世界を築きたくて
俺はもだえあがき苦しむ

自分がなければ 一切がない
一切がなければ 自分の存在はない

神は謂う
多聞よ 多聞 汝さらに苦しめ 道は与えたり

神は謂う
多聞よ 多聞 汝苦しむことなかれ 道は与えたり




「一期一会」

7月に30数年のの長きに渡って指導いただいた先生が亡くなられた。
今度は17才の時から一緒に歩いてきた先輩だ。
心のどこかに覚悟していたから、
亡くなられたと聞いても涙は出なかった。
でも、その夜ベッドで一人になると先輩のことが思い出されて涙が出た。
通夜や葬儀に出て、
「あの棺の中に先輩がいる」と思うとやはり涙が出た。
もう先輩とはこの世では会えんとやね。
これで先輩と時間ば共有でけるとも最後タイと思うとたまらんかった。




「お盆」
田舎にいた時はいつもお墓参りに行った。
父が亡くなった昨年は初盆でお墓参りに行った。
今年は行かなかった。
行けなかったのではない。
行かなかった。

現実の上に生きることにしよう。
じいちゃん、ばあちゃん、さようなら。
親父、さようなら。
俺は一人で生きるよ。
ちいさな自立。
ちゃんと自立したら、何時か又行くタイ。




「生きる」

子どもにはあらゆる可能性があると人は言う。
障害者も色々な可能性があるんだから夢は諦めちゃ駄目とみんなが言う。
そん通りタイ。
諦めちゃいかん。

バッテン違うとよ。
そうじゃなかと。
そりゃ入り口の入り口タイ。

可能性なんてなか!
待っとるとは絶望と諦め、先の見えない真っ暗闇の世界。
そうしか思えん時がどれほど続くか人は知らん。
諦めないでと言った人が諦めた後で、
私は一人苦しんで苦しんで、それでも諦めずに求め続けて生きていた。
根性があったんじゃない。
それしか私には生きる道がなかった。

ある日一筋のほのかな光が見えた。
その光は誰にも見えん、俺にしか見えん、暗いほのかな光。

あったのは色んな可能性なんかじゃなか。
たった一筋の光やった。

僕が求めていたのは漠然と生きることじゅなか。
自分の全てを燃やして悔いない世界だった。
自分の生命を、灰すら残らないほど燃やし尽くす世界だった。

薄暗いほのかな光は日々明るくなり、
私がこの世で何を為すべきかすらはっきりと見えた。

真理は光である。
力である。
確信である。

人は、皆この世に為すべき事がある。
天はそれを授けられた。
そして吾をこの世に下し給うた。
それは私だけじゃない。
万人然りである。
誰もがこの世で為すべき事があって生まれたのだ。
それは外にあるんじゃない。
足下にある。
明日じゃなくて、今そこにある。





「死」

恩師が亡くなりました。

怪我してから死は身近な存在。
最初の頃は考えない日はないというくらい考えた。
でも、あれから30年・・・
すっかり長生きをし過ぎてしまった。
生きることにくたびれた私をおいて恩師が亡くなってしまった。

俺は何をしていたのだろう。
最後に手紙を書くことも怠ってしまって。




「孤独」

私がここに来て一年と八ヶ月、
最初からお世話になっていた方が止めることになった
でも、そのお別れ会に僕は出席出来ない
会社の規則は利用者とそういうことをやることを禁止している

きっと色々な理由があるのだろう

でも、そんなものなのかな?
人間の関係てそんなものなのかな?
僕の心は寂しさに悲鳴を上げている





「気の重たいこと」

自分のこの身体が動かないことは仕方のないこと
それは分かっている
でも、
僕が何か行動すると周囲の人に迷惑をかける
それがたまらない

出かけた先で車椅子をかかえてもらったりするのもイヤたけれど
それはまだいい

僕がどこかへ出かける。
するとヘルパーさんや看護婦さんの予定の変更が必要になる
断ることだってある
それが一日ならいい
一ヶ月に何日も重なると
彼女らにどれだけ迷惑がかかることか

「仕方ないよ」と割り切れない
だって彼女たちが支えてくれているから僕は生きて行けているのだもの
僕が断れば彼女らは仕事がそれだけなくなる
なのに、僕が出かける準備さへ
彼女たちにしてもらわなきゃならない

やっぱり気が重たい
僕は僕らしく、人間らしく生きたいだけなのに
悲しいね





「ある友人との別れ」   
  先月あなたを病院に訪ねた時に、その弱りようを見て驚きました。
ホスピスを知らないかと尋ねられて、父が入院したホスピスを言うと嬉しそうにされたのに、
その料金を聞かれて答えると、「私には入れない」とあなたは言われた。

病院から帰る時に、
「なんで、今まで頑張って頑張って生きてこられたこの方が、苦痛を和らげたいとだけ
願っておられるこの方が、ホスピスにはいることさえできないんだ」
と悲しく思いつつ帰りました。

あなたとお別れがいずれ近いうちに来ることは感じていました。
でも、あれから僅か一ヶ月、どうして・・・・。
どうして、そんなに早く逝ってしまわれたのですか・・・。

いえいえ、あなたの死も神様の無限の祈りに違いない。

いつだったかまだ元気で、小さな文字で日記を書いておられた頃、
施設のあなたの部屋を訪ねた時に、
「馬場さん天国って、明るく輝く花園だって言う人がいるけどどうなんだろうね」と言われたことがある。

あなたはその現世での苦痛の人生を今終えられた。
どうか、どうか、思いっきりその花園で自由に生きて下さい。

私にはあなたとの別れにあたってこんな平凡な言葉しか言えない。
あなたは施設で心をくさらせることなく、凛として生きておられた。
私は立派な方だと尊敬致しておりました。

でも、どんなにか施設から出て自由な身で健康な体でいたかったでしょう。
それを思うと、平凡でも、勝手な想像と言われても良い。
自由になってよかったね、もう誰もあなたを縛ることは出来ない。
どうか、どうか、明るく輝く花園で自由を満喫されて下さいと言うことしかできません。

でも、
残念です・・・・・・
悲しいです・・・・・・





「福祉ってなに?」

二年前に家を出て施設に入ることを決意した時に、
何カ所かの施設をショートステイで訪ねました。
それは現実に自分の肌で施設の生活を感じるためでした。
施設のことを何も知らない私はそうするしか方法がなかったのです。
何も知らないで、ただ漠然と施設を決めるなんて私には出来ませんでした。
これからの自分の人生がかかっているのです。
腹を据えて真剣に取り組まざるを得ませんでした。

(何せ2年前は一度入所したら変更はきかないのです。
施設の移動には市役所の同意が必要なのに、
市の福祉事務所は、「一旦入所したら施設の変更は出来ない」と言うのです)


施設が入所者を選ぶ様に私も施設を選ぶ。
私はそれが普通ことだと思っていました。
いいえ、今でも思っています。
でも、現実はそうではありませんでした。


最初に市役所に訪ねたら、そんなことをした人は今まで一人もいなかったようでした。
それで、私は施設のパンフレットを取り寄せ、電話をかけ、
感じの良い施設数カ所を選んで、市役所にショートステイの契約をしてもらいました。
5カ所ほど選びましたが、全て私の故郷の市役所では初めての契約でした。


いよいよショートステイをしていたら、
その内市役所からストップがかかりました。
私のショートステイの日数が多すぎてショートステイの予算が切れたというのです。
驚きました。
そして、追い打ちをかけるように早く入所する施設を決めてくれと言うのです。
更に驚いたことは、では、行き先が決まるまで家で暮らしが出来るように、
ヘルパーを派遣してくれるように依頼すると、
「昼間の派遣は出来るが、夜のヘルパー派遣は制度そのものがないし、
あなたよりもっと障害の重い方にすら派遣が出来ていない」という返事でした。
もっともなご意見です。
しかし、私にとって夜の介護を派遣してもらえないと言うことは、
故郷の八女を出て行きなさいと言う宣言そのものなのです。
市の福祉の貧弱さ、福祉事務所の不熱心さ、心のなさをいやというほど感じました。
役所仕事ということの現実を初めて知らされました。
家でやれることは出来る限り家でやる。公の力は出来る限り借りないで頑張ると思って28年。
力が尽きて、矢折れて、これからは公の力を借りて生きていこうと思ったら、この様です。
福祉とは何だろうと考えざるを得ませんでした。


私には行く所がありません。
早く施設を選んで入ることを承諾しました。
ここなら良いだろうと思っていた3カ所の施設は空きがありませんでした。
ここなら良いかも知れないという施設が間もなく開所するのでそこに申し込むことにしました。
市役所は希望する施設への入所が決定するまでとにかくどこかの施設に入っていてくれと言いました。
話が随分と違うと思いましたが、
非難通路すらなく利用者と「これじゃ火事があったら二階は全員死亡じゃね」と
話していた施設に空きがありましたので、
そこに自分の希望する施設には入れるまで暫く入ることにしました。


その後で市役所はこう言ってきました。
「施設の希望は一回だけ、そこに抽選で選ばれなかったら、そのままその施設に入所してもらいます」
私はこの話を聞いて、今までの話は全て断る、至急入所するという話も白紙だと伝えました。
結局、障害者には施設は選べないということなのです。
飯塚のある施設で、利用者さんから言われたことを思い出します。
「馬場さん、夢や希望を持っては駄目」


今までの話は全て断ると言ったものの、
でも、母の状況はそんな私の思いを許さないものでした。
もう、仕方ない、空きが無いというなら涙を飲んで空きのあるこの施設にはいるしかないと覚悟しました。
心の準備も整いました。


まー、驚いたことに、その後で別な理由で突然に自立へと急展開しました。
でも、時間がありません。
自立すると決めて一ヶ月半で福岡に転居しました。
もう倒れそうになるほど忙しい毎日でした。
色々な方のお世話と偶然があって初めて出来たことでした。
その時にモモちゃんにも相談相手になってもらいました。
お世話になりました。
モモちゃんあの時は本当に有り難うね。


障害者に対する今の福祉は、未だに施すという感覚があります。
そうではないのです。
障害者にとっての福祉とは、
障害者が人間として生きていくことのできる、整備をする、手伝いをする、
人間として生きていけるように支える、それでいいのです。
それが福祉の基本だと考えます。
そのことが確立されていないが故に、
様々な問題が生じているのではないでしょうか。





「風の声」  tamon 15.4.29


朝方ふと目をさましたら、なにか音が聞こえました。

「おはようo(^o^)o」 「おはようo(^o^)o」
子猫の朝の挨拶でしょうか。

「いやー、昨夜の風はひどかったね!」 
「本当、家の子が枝から落ちるんじゃないかって心配したわよ」
雀の井戸端会議?


障害者の私達もイッパイしゃべっています。
でも、健康な人達と違い、どこでも、いつでもしゃべれる訳じゃない。
私達も生きているのに・・
言いたいことはイッパイあるのに・・
悩みもいっぱいあるのに・・

「ありのままの気持ちをぶつけたらいい」って?
誰に? いつ? どこで?
言いたい時に、聞いてくれる人がいないのが、いつものこと。
ヘルパーさんに、怒りや悲しみをそのまんまぶつけたらどうなると?
明日から来てくれんごとなったら、気まずいことになったらどげんすると?
自分の気持ちを100%ぶつけることなんて出来ないよ。

それでも一人で暮らす僕はまだよか方タイ。
施設の仲間達は、もっと厳しい。
周りに寮母さん達はたくさんいるよ。
でも、苦しい時や悲しい時、叫んだり、怒鳴ったり、泣きわめいたり、出来ない。
俺にはできない。

障害者はみんな、自分の気持ちをどこかで抑えている。
誰も自分の気持ちをみんな吐き出したりしない。
僕もベッドで、涙を流し、悔しい思いし、孤独を感じた。
だから、僕はこのホームページを作った。

何でも書いて!!
嬉しいことがあったら、たくさん自慢して!!
彼とのデートが楽しかったら、楽しかったンだってイッパイ書いて!!
それを読んで、僕も喜ぶよ。

悲しかったら、悔しかったら、イッパイ書きまくって!!
僕も悲しむよ。悔し涙を流すよ。

一緒にたくさん話をしよう。






多聞


この「アカマツ林郵便局」は桃と多聞の二人の運営です。

桃ちゃんは関東の介護関係者、
今は体力に自信ないけど、心はまかせといて!の姉しゃんです。
のたうち回っりながらも元気に生きております。

多聞は魚のアラみたいな顔したオッサン。
髭を生やした強面の頸椎損傷のオッサンじゃけど、
顔と違うて、心優しき、泣き虫の怒りオッサンです。






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管理者: tamon  もも
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