奈良時代の養老四年(720年)、反乱を起こした隼人が、隣の国分市府中に在った大隅国府(役所)を襲い、
国司(長官)を殺害するという大事件が起こりました。
反乱の原因は良く分かりませんが、大隅の国が和銅六年(713年)に設置されていますので、大和朝廷の
政治を快く思わない隼人たちが一挙に不満を爆発させたのでしょう。
大和朝廷は一万人ほどの兵隊を大隅地方に送り込みました。一万人という数字はちょっとやそっとの数字
ではありません。これほどの軍隊は、大和地方から直接下っては来ないと考えられます。当時、九州には18
の軍隊が有ったと推定されています。筑前四(四千)・筑後三(三千)・豊前二(二千)・豊後二(千六百)・肥前
三(二千五百)・肥後四(四千)で一万七千百人の兵士がいた計算です。
隼人の乱の時には、これらの軍団の大半が動員されたものとみてよいでしょう。しかし迎え撃つ隼人側も、
果敢に戦ったようです。『続日本紀』によれば、乱は二月に起き、三月になって、朝廷は大伴宿禰旅人を征隼
人時節大将軍に、笠朝臣御室・巨勢朝臣真人の二人を副将軍に立てています。これら朝廷軍の首脳部が九
州に下った後、軍団を編成したものとみえ、直接の交戦はかなり遅れたらしく、六月になって「凶徒を剪りは掃
う」とかいてあります。
翌年の養老五年七月になって、ようやく乱は鎮圧されました。乱発生より一年数ヶ月、一万人の軍隊を相
手に隼人は良く戦ったといえます。その代わり隼人の犠牲も大きかったようです。千四百人ほどの隼人が首を
切られたり、生け捕りにされたそうです。
興味深いことに、隼人の乱の時、朝廷は軍隊だけでなく、神様をも大隅に派遣しています。神様とは大分県
宇佐の八幡様です。どうして神様が必要であったのか、それは八幡の神が敵対する者をやっつける力がある
と朝廷側が信じたからだと思います。この時、敵対したのは、外ならぬ隼人です。
ところが隼人が降伏した後、宇佐地方では作物の不作や病気の流行など、良からぬ事が次々と起こったそ
うです。そこで宇佐の八幡宮では、悪いことが起きるのは、きっと自分たちが殺した隼人の霊が祟っているか
らに違いないと考えたようです。
そこで隼人に対する罪滅ぼしの祭りを始めました。この祭りを「放生会(ほうじょうえ)」と呼びました。宇佐の
放生会では隼人に見立てた巻き貝のニナを数キロ離れた海岸に持っていき、放ちます。放生会は仏教の不
殺生戒(殺すなかれ)という教えに基づいているといわれます。養鰻業者やスッポン業者が、日頃ウナギやス
ッポンを殺しているので、川や池などに活かして放してやる儀式をやりますが、放生会の精神もそれと同じ考
えに基づいていると思います。
この放生会の祭りが、いつの頃からか、隼人の根拠地の鹿児島神社(神宮は明治七年からの名称)にも伝
えられました。隼人の乱後、宇佐の勢力が入り込み、八幡の神様を祭るようになったのか、そこのところは、
はっきりしませんが、平安時代の頃から八幡宮を名乗るようになりました。特に隼人町にある八幡宮は「正八
幡」と呼んで、他の八幡宮と区別していました。
八幡宮ですので、やはり放生会の祭りを正八幡宮でもやってきた訳です。正八幡宮でも、宇佐八幡宮にな
らってか、やはり海岸端の浜之市の八幡屋敷に下り、そこで神楽を舞ったようです。神輿の前後には、馬に乗
った神官や徒歩の鎧武者などが付き従う、この行列を地元の人は「浜下り」と言いました。
浜下りの祭日は、旧暦の八月十五日で、いわゆる仲秋の十五日、十五夜の日です。時季は今の十月の
頃、ちょうど秋の収穫の時に当たっています。これがために、収穫祭や海から豊饒がもたらされるという思想
などと混同してしまったために、現在では浜下りを「豊饒祭」(ホゼマツイ)と思っている人が多いようです。
しかし鹿児島神社(正八幡宮)に関する古文書には、放生会は隼人の乱で殺された隼人の霊を慰めるため
の祭りであると、はっきりと書いてあります。
ここで注目したいのが、放生会の神輿が隼人塚に立ち寄り、神楽を舞って祭りをしていたということです。隼
人塚には、昔から大和朝廷に殺されたクマソ・隼人の供養の塚だという言い伝えがありました。隼人供養の
祭りである放生会と隼人塚の言い伝えは太い線でつながります。明治の廃仏毀釈により、神仏切り離された
ため、仏教遺跡である隼人塚は、今の鹿児島神宮とは関係のないように見えますが、それ以前には切っても
切り離せない関係にあったことは間違いありません。建立の目的が今一つはっきりしない隼人塚に、この浜
下りの祭りが何か手掛かりを与えてくれそうな気がしてなりません。
隼人町教育委員会
文化財室長 藤浪三千尋
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